デヴィッド・ギルモア / デヴィッド・ギルモア
David Gilmour / David Gilmour
25AP-1077
★ ピンク・フロイドのギタリスト ★
*1978年に発表したファースト・ソロ・アルバム
ピンク・フロイド加入以前に活動していたバンド、
ジョーカーズ・ワイルドのメンバーたちを呼び集めて制作
2024年4月14日
25AP-1077
★ ピンク・フロイドのギタリスト ★
*1978年に発表したファースト・ソロ・アルバム
ピンク・フロイド加入以前に活動していたバンド、
ジョーカーズ・ワイルドのメンバーたちを呼び集めて制作
2024年4月14日
MR-2289
★ 1975年 フランス発売盤 ★
*「巴里にひとり」フランス語ヴァージョン収録
「時の過ぎゆくままに」「追憶」「白い部屋」は日本語
その他はフランス語、または英語ヴァージョン
2024年4月13日
全国歌謡ベストテン
さてさて久々のチャートネタですが、
今回は文化放送をキー局に全国ネットされていた、
歴史的な邦楽ランキング番組のご紹介です。
その名も「全国歌謡ベストテン」。
スタートは1962年のことですが、新聞の縮刷版でラテ欄を調べたところ、
当初はナイター期間中は半年間休みになってたり、
結構ブランクがあったようです。
尤もたとえキー局で放送されていなくても、
ネット局ではちゃんと放送されているという、
いわゆる「裏送り」というやり方もあるので、
ランキング自体は連続して作成されていたのか、当時の詳細は不明です。
当初のパーソナリティは小野俊雄さん、
そして2代目のパーソナリティにあたる方が、
僕の大学時代の先生でもある、茂木幹弘さんです。
「ユア・ヒット・パレード」の初代DJとして知られる方ですが、
僕にとっては「全国歌謡ベストテン」が先生との出逢いになります。
当初は葉書リクエストのみによるランキングで、
全国各地区から集計結果が速報で入って行き、
番組最後に総合ランキングを決定、ベスト30を一気に発表します。
この頃は音楽番組というよりは、むしろ選挙速報的な
報道番組に近い雰囲気を醸し出していました。
1970年からはコンピューター集計となり、
葉書の他に電話リクエスト、レコード売り上げ、選定委員会ランキング等、
様々なデータに基づくチャートとなります。
ただ全国集計である為か、動きが遅いという指摘がよく見受けられます。
以前たまたま知り合いになったあるラジオ関係の方から、
数々の番組の貴重なランキング・データを
お送りいただいた事がありましたが、
その中に「全国歌謡ベストテン」100回記念の
総合ランキングというのがありました。
1位はダントツで橋幸夫さんの「白い制服」。
他にも橋さんの曲は多数が上位に入っており、
当時のリーダー的役割だった事が感じられます。
次いで三橋美智也さんの強さも目立ち、
戦前からの流れを受け継ぐ流行歌の類いも、
まだまだ健在だった事が忍ばれます。
舟木一夫さんや西郷輝彦さんは、
デビューしてから日が浅く、やっとこさ御三家勢ぞろい
といった時期である事も判ります。
前述の新聞の縮刷版を見て行くと、
1964年には橋幸夫さんの「恋をするなら」が、
新記録達成!と書いてあります。
おそらく初の10週連続1位獲得であると思われます。
僕が実際にこの番組を聴くようになったのは、
1967年の1月頃からです。
それではここで、「全国歌謡ベストテン」の
各年度別の年間No.1曲を、判る範囲でお知らせしましょう。
なお年間チャートの発表が無かったり不明な年は、
1位10点、2位9点・・・10位1点として単純集計、
そのポイントによるNo.1曲を、参考までに書いておきます。
昭和42年 夕 笛/舟木一夫
10週間No.1という圧倒的な強さでした。
昭和43年 艶 歌/水前寺清子
他の番組ではベストテン入りがやっとという状態でしたが、
この番組のみでの強さが目立ちました。
昭和44年 京都・神戸・銀座/橋幸夫
久々の大ヒットと言われましたが、この番組ではその前後にも
「恋はせつなく」「赤い夕陽の三度笠」「乙女川」「東京ーパリ」
が1位、「荒野のまごころ」が2位と、人気は今だ衰え知らずでした。
昭和45年 手 紙/由紀さおり
5月からコンピューター集計によるランキングに変更、
年間チャート発表なしですが、単純集計では10週間No.1のこの曲。
昭和46年 また逢う日まで/尾崎紀世彦
年間チャート発表があったかどうかは不明ですが、単純集計ではこの曲。
昭和47年 ひとりじゃないの/天地真理
昭和48年 危険なふたり/沢田研二
年間チャート発表があったかどうかは不明ですが、単純集計ではこの曲。
昭和49年 よろしく哀愁/郷ひろみ
歌手別のランキング発表で、No.1は西城秀樹ですが、
曲目別での単純集計ではこの曲。
昭和50年 私鉄沿線/野口五郎
昭和51年 横須賀ストーリー/山口百恵
昭和52年 ウォンテッド/ピンク・レディー
昭和53年 UFO/ピンク・レディー
昭和54年 関白宣言/さだまさし
昭和55年 ダンシング・オールナイト/もんた&ブラザーズ
昭和56年 ルビーの指環/寺尾聰
昭和57年 待つわ/あみん
昭和58年 ガラスの林檎/松田聖子
昭和59年 涙のリクエスト/チェッカーズ
歌手別のランキング発表で、No.1はやはりチェッカーズ、
曲目別での単純集計ではこの曲。
昭和60年 あの娘とスキャンダル/チェッカーズ
昭和61年 CHA-CHA-CHA/石井明美
歌手別のランキング発表で、No.1は中森明菜
昭和62年 君だけに/少年隊
昭和63年 ガラスの十代/光GENJI
なぜか前半のみの集計です。
平成 1年 Diamonds/プリンセス・プリンセス
平成 2年 夢を信じて/徳永英明
この年も前半のみの集計です。
平成 3年 はじまりはいつも雨/ASKA
平成 4年 それが大事/大事MANブラザーズ・バンド
平成 5年 負けないで/ZARD
平成 6年 イノセント・ワールド/ミスター・チルドレン
平成 7年 TOMORROW/岡本真夜
平成 8年 アジアの純真/パフィー
平成 9年 HOWEVER/GLAY
平成10年 (年間チャート発表不明)
平成11年 AUTOMATIC/宇多田ヒカル
平成12年 TSUNAMI/サザンオールスターズ
平成13年 Can You Keep A Secret?/宇多田ヒカル
それで長い歌謡曲の歴史の中では、
当時の様子が正しく伝えられていないという状況も生まれます。
例えば「ラブユー東京」黒沢明とロス・プリモス
「星影のワルツ」千昌夫
このあたりが昭和41年のヒットであるという記述をよく見ますが、
実際にヒットしたのは昭和43年のことです。
また「女のみち」ぴんからトリオ
「なみだの操」殿さまキングス
このあたりがNo.1を独走したような記述もありますが、
実際にはそれはレコード売り上げを重視した番組のみであって、
当時大半を占めていた葉書のみによるランキングでは、
殆どの番組でベストテン入りがやっと、
特に僕の地元北九州・福岡地区の番組では、
ベストテン入りすら出来ずというところが多かったのです。
また当時のグループサウンズの扱い方の不徹底ぶりも
リアルタイムでない方々には、想像もつかないと思います。
歌謡曲の番組に入ることは少なく、
多くは洋楽の番組に登場していました。
しかし「全国歌謡ベストテン」では、このGSは比較的健闘しており、
特にタイガースは「僕のマリー」でいち早くベストテン入り、
「花の首飾り」「シー・シー・シー」はNo.1に輝いています。
しかし例えばジャッキー吉川とブルーコメッツは、
「何処へ」で初チャート入りを果たしたものの、
おそらくGS史上最大のヒットである筈の「ブルー・シャトウ」が
全く登場していないなど、かなり一貫性を欠くという印象です。
まあ当時の状況をなるべく正確に伝え、
音楽によって当時の雰囲気をよりリアルに描き出す、
いわゆる「音楽による時代考証」。
それが僕がやって行きたいと思うことのキーワードです。
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2024年4月11日
C25G-0350
★ 1984年 ピンナップポスター付き ★
*TVアニメ『金田一少年の事件簿』の主人公役をはじめ
多くの役柄を担当している声優
現在は松野太紀として活動
2024年4月11日
2024年4月11日
2024年4月11日
2024年4月11日
MR-5056
★ 1975年 ファーストアルバム ★
*瀬尾一三がA面すべての編曲
木森敏之が2曲の作曲とB面すべての編曲を担当
演奏陣も豪華なラインナップ
石川鷹彦、チト河内、村上秀一、高中正義、
羽田健太郎、新室内楽協会 他多数
2024年4月11日
僕が大学時代にラジオ制作実習・卒論を担当していただいた先生が、
日本におけるランキング番組の草分け「ユア・ヒット・パレード」の
初代パーソナリティの方であったことは以前お知らせした通りです。
とは言っても「ユア・ヒット・パレード」自体、
もう30年以上も前に終了した番組であり、
ご存じない方のほうが圧倒的に多いと思いますので、
番組とその周辺の状況を、簡単にご紹介しておきましょう。
僕の印象では「ユア・ヒット・パレード」と言えば、
映画音楽が妙に強い、ちょっと変わった番組という感想を持っていましたが、
1976年4月の番組改編を持って姿を消す事になりました。
まさに僕が茂木先生に教えていただいていた真最中でした。
当時映画音楽は既に数多い音楽ジャンルの一つに過ぎないという位置付けにあり、
映画音楽中心の番組の存在価値が、
希薄になって来ていたという印象は否めません。
因みにRKBラジオで放送されていた、
鬼橋美智子さん(おにちゃん)の「ユア・ヒット・パレード」は、
全くの別番組ですが、洋楽の日にはオリジナルの方の
「ユア・ヒット・パレード」の話題が取り上げられる事も多々ありました。
文化放送の「ユア・ヒット・パレード」は、1955年10月1日にスタート。
実はその前に既に高崎一郎さんによる同種の番組が存在したそうですが、
「ユア・ヒット・パレード」の知名度が圧倒的に高く、
全国ネットもされていたので、日本におけるランキング番組の草分けと言えば、
「ユア・ヒット・パレード」を指す事が多いようです。
毎週土曜日の夜8:00〜8:30の30分番組で、パーソナリティは
文化放送の茂木幹弘・田中まり子、両アナウンサーが担当しました。
当時はまだテレビはあまり普及しておらず、最大の娯楽と言えば映画という時代、
そのため映画音楽を中心とした番組作りが特徴でした。
番組の構成はベストテン(後にベスト20)のランキングを紹介し、
上昇曲の中から選出した曲、及び上位3曲を放送するというもので、
途中に新曲紹介と新着映画紹介のコーナーを設けていました。
最初のランキングは2週目の10月8日に放送されました。
1 ロック・アラウンド・ザ・クロック/ビル・ヘイリーと彼のコメッツ
2 ベニスの夏の日(旅情)/ロッサノ・ブラッツィ
3 はだしのボレロ/ユーゴ・ウィンターハルター楽団
4 恋人よわれに帰れ/トニー・マーティン
5 パリのお嬢さん/ジャクリーヌ・フランソワ
6 モンマルトルの丘/コラ・ヴォケール
7 セレソ・ローサ/ペレス・プラード楽団
8 チャ・チャ・チャは素晴しい/エンリケ・ホリン
9 デビー・クロケットの唄/ウォルター・シューマン
10 グリズビーのブルース/ラリー・アドラー
上位3曲を映画音楽が独占したということで、大いに話題になったようです。
更に3週後の10月29日には、ヴィクター・ヤング楽団の「エデンの東」が
ベストテン入りしますが、この曲こそ78週間No.1獲得(不連続)、
更にリバイバル公開時の1963年、1971年にもNo.1となる、
おそらく日本の洋楽史上最大のヒット曲なのです!
主演のジェームス・ディーンが自動車事故により急死するという悲劇が、
この曲の人気を決定的なものにし、番組には毎週毎週
「エデンの東」への「涙のリクエスト」が殺到したそうです。
「ユア・ヒット・パレード」は翌1956年7月15日から、
毎週日曜日の夜9:30〜10:00というゴールデン・タイムに移動、
その直後にロックン・ロールの王者、エルヴィス・プレスリーが、
「ハートブレイク・ホテル」で初のベストテン入りを果たしています。
続いて1957年1月9日には、ラジオ東京(現TBSラジオ)が
洋楽のランキング番組「今週のベスト10」をスタートさせました。
当初は毎週水曜日の午後2:05〜3:00という、
学生や勤め人にはいささか聴き辛い時間帯でした。
(当時一般家庭にテープ・レコーダーなどあろう筈もなかった時代です)
映画音楽もランク入りしてはいましたが、どちらかと言えば
エルヴィス・プレスリーやパット・ブーンに代表される
ポピュラー・シンガーの歌の方が強かったようです。
またこちらでも「エデンの東」はロング・ヒットとなりましたが、
あまりに強すぎるため遂に引退という形でランキングから外してしまいました。
随分と抗議の葉書が集まったようですが、
結局引退取り消しはしなかったそうです。
1958年にはポール・アンカが来日を果たし、爆発的な人気を集めました。
(もっとも素行面では色々とあったようですが)
特に「ユア・ヒット・パレード」では、6月29日放送分で、
1位「君はわが運命」、2位「ダイアナ」、3位「クレイジー・ラブ」
4位の「エデンの東」をはさんで、5位にまたまた「ロマンスの鐘は鳴る」と、
なんとポール・アンカ1人で上位5曲中、4曲を独占。
この年の年間チャートにも、ベストテン内に3曲を送り込んでいます。
またこの年には音楽雑誌「ミュージック・ライフ」が7月号より、
主要レコード店の集計による洋・邦のポピュラーの売上ランキングの掲載を開始。
7月号に掲載された5月の売上でも、
外国盤の上位はポール・アンカが独占しています。
1959年にはテレビの「ザ・ヒット・パレード」がスタート、
更に1960年代に入ると、
ニッポン放送の「キャンディ・ベスト・ヒット・パレード」
文化放送の「9500万人のポピュラー・リクエスト」も参入。
ヒット・パレード黄金時代が繰り広げられ、
「ユア・ヒット・パレード」はそのリーダー的役割を果たし続けました。
その辺りの状況は、また次の機会にということで・・・
なお今回書きました中で、主に番組初期の状況につきましては、
学生時代に茂木幹弘先生から直接お聞きした話に基づいています。