ラジオのベストテン番組あれこれ
★文化放送『全国歌謡ベストテン』
アナログレコード担当の中嶋ひろ志です。僕は小学5年から歌謡曲の、小学6年からポピュラーのベストテン番組を聴き始め、ランキングの記録を取るようになりました。ファンファンのお客さまからも、これまでにランキングのお問い合わせをいただいたり、お持ちのランキングの資料を送っていただいたり、やり取りをしている方が何人かいらっしゃいます。ポピュラーのランキングのデータをネット上で公開している方は結構いらっしゃいますが、歌謡曲のデータは非常に少なく、特にオリコン・シングル・チャートが正式にスタートする前の、1967年以前の資料は特にラジオ番組に関するものは殆ど見かけません。最近、文化放送の『オール・ジャパン・ポップ20』のランキングのお問い合わせをいただいた方が、同じく文化放送の『全国歌謡ベストテン』の資料を入手され送って下さいました。僕は1967年の1月くらいからリアルタイムで聴いていたので、ある程度は資料もあるのですが、それ以前はほぼ判らない状態でした。(以前に他の方から、番組スタートから100回目までの総合チャートといった、貴重な資料を送っていただいたことはあります)
今回送っていただいた資料を整理して分析しているのですが、次第に『全国歌謡ベストテン』の初期のランキングの特徴が明確になって来ました。同番組では以下のタイプの曲は、全くオミットされるか敬遠されていたような傾向が見られます。
1 任侠もの・ヤクザもの
2 コミックソング・ノベルティもの
3 お色気もの
4 絶叫タイプや悪声のシンガー
5 男性がうたう女歌
6 渡辺プロダクション関係(一部例外あり)
7 外国曲のカバー
8 長髪のGS(タイガースは例外)
※但し他の多くの番組ではGS自体が基本的に洋楽扱いで、
歌謡ベストテンではランク外だった。
一方圧倒的に強かったのは、青春歌謡やクルーナー唱法のムード歌謡。いわば美声で丁寧に・端正に歌い上げるシンガーが非常に好まれていたようです。具体的に言えば、当時トップクラスの人気だったのは、いわゆる歌謡界の御三家、橋幸夫さん・舟木一夫さん・西郷輝彦さんという事になりますが、実は『全国歌謡ベストテン』では三田明さんは15曲以上のNo.1曲があり、西郷輝彦さんを上回っていました。また正直ピークを過ぎた印象のあった三橋美智也さん、春日八郎さん、フランク永井さん、三島敏夫さんあたりがまだまだ健在で、ベストテン入りを果たしていました。しかし村田英雄さん、三波春夫さんはさほどの勢いはありませんでした。その他の男性で強かったのは、坂本九さん、北原謙二さん、梶光夫さん、久保浩さんなどでした。一方女性歌手では歌謡界の女王美空ひばりさんを筆頭に、こまどり姉妹、畠山みどりさん、園まりさん、都はるみさんあたりが強かったのですが、次第に水前寺清子さんが頭角を現わして来ます。1968年の年間チャートでは「艶歌」で総合1位を獲るほどでした。僕の大学時代の恩師で、文化放送のアナウンサーだった茂木幹弘氏によると、三田明さんと水前寺清子さんには強力なファンクラブ組織が付いていたとの事でした。ファンクラブ組織によって投票が行われていた事になりますが、これを正当と見るか否かは意見の分かれるところでしょう。但し一人の方が一度に何枚も複数の投票をすることに対しては、厳しく目を光らせ一週につき全部で1票としていたようです。(『全国歌謡ベストテン』の番組内で言及がありました。)
茂木幹弘先生は僕が『全国歌謡ベストテン』を聴き始めた頃は、アナウンサーとしての役割に留まらず、文化放送のチーフプロデューサーとして全面的に番組制作に携わっておられたとのことです。茂木先生の印象はいつもにこやかで折り目正しい方でした。日本のヒットパレード番組の草分け『ユア・ヒット・パレード』で映画音楽を積極的に紹介したり、エルヴィス・プレスリー・ファンクラブの名誉会長を務められたり、ビートルズの魅力にも非常に早い段階で注目しておられました。そのような音楽に対する造詣の深さが、『全国歌謡ベストテン』の番組作りにも反映されていたと思われます。1969年頃には『全国歌謡ベストテン』のアナウンス担当は別の方に替わっていましたが、その頃からランキングの勢力が少し変わり、それまでは殆ど登場していなかった森進一さん、青江三奈さん、布施明さんなどが徐々にベストテン入りを果たすようになったのも、もしかすると番組プロデューサーが交替した影響ではないかと推察されます。(次回へ続く)